序章:1998年9月13日、世界がNAKATAを知った日
1998年9月13日、イタリア中部ウンブリア州の古都ペルージャ。スタディオ・レナト・クーリのピッチは、熱狂と期待に包まれていた。当時世界最高峰と謳われたサッカーリーグ、セリエAの開幕戦。前シーズンにセリエBから昇格したばかりの地方クラブ、ACペルージャが、絶対王者ユベントスをホームに迎えた一戦である。
この試合で、一人の日本人選手がセリエAのデビューを飾った。背番号7、HIDETOSHI NAKATA。同年夏のW杯フランス大会で世界にその名を知らしめた21歳の若武者は、金髪をなびかせ、臆することなく王者ユベントスの選手たちに立ち向かっていった。
試合は、誰もが予想しなかった展開となる。後半7分、右サイドからのパスに走り込んだ中田は、角度のないところから右足を強振。強烈なシュートはGKアンジェロ・ペルッツィが守るニアサイドをこじ開け、ゴールネットを揺らした。さらにその7分後の後半14分、今度はコーナーキックの混戦からこぼれたボールを、身体を倒しながらボレーで叩き込む。3-0とリードされ、敗色濃厚だったスタジアムは、この2ゴールで一気に燃え上がった。
試合こそ3-4で惜敗したものの、この日の主役は間違いなく中田英寿だった。なぜ、一人の日本人選手が、世界最高峰の舞台でこれほどの輝きを放つことができたのか。そして、なぜ彼の最初の挑戦の地は、ビッグクラブではなく、ペルージャという地方クラブだったのか。その背景には、一人の型破りな会長の存在と、時代を先読みしたクラブの野心的な戦略があった。
本記事では、1998年のあの日から始まった中田英寿とACペルージャの物語を、当時の時代背景、関係者の証言、そしてクラブの数奇な運命と共に、1万文字を超えるボリュームで深く掘り下げていく。
第1章:異端の会長ルチアーノ・ガウッチとペルージャの野望
1-1. 名物会長ガウッチ氏とは?
中田英寿のペルージャ移籍を語る上で、絶対に欠かすことのできない人物がいる。当時の会長、ルチアーノ・ガウッチ(Luciano Gaucci)その人である。
1938年にローマで生まれたガウッチは、実業家としてクリーニング会社を経営し財を成した。その一方で、彼は生粋のスポーツ好きであり、特にサッカーと競馬に情熱を注いだ。1991年、当時セリエC1(3部相当)に沈んでいたペルージャの会長に就任すると、その型破りな経営手腕と奇抜なアイデアで、イタリアサッカー界にその名を轟かせていく。
ガウッチは、単なるサッカークラブの会長ではなかった。彼は、クラブを宣伝するための話題づくりに長けた、稀代のショーマンだったのだ。彼の哲学は「クラブを常に話題の中心に置くこと」。そのために、常識外れの選手獲得や、物議を醸す発言を繰り返した。
1-2. ガウッチ会長の奇抜な戦略
ガウッチの戦略は、常に世間の注目を集めることを目的としていた。その代表的な例が、彼の独特な選手獲得術である。
•マーケット開拓戦略:ガウッチは、まだサッカー界で未開拓だった市場に目をつけた。1998年のW杯後、彼はアジア市場の可能性にいち早く着目し、日本の至宝・中田英寿を獲得。さらに2000年には、韓国のスター選手、安貞桓(アン・ジョンファン)を獲得し、アジアでのペルージャの知名度を飛躍的に高めた。しかし、この移籍は後に大きな騒動を巻き起こす。2002年日韓W杯の決勝トーナメント1回戦、韓国対イタリア戦で、安貞桓が延長戦でゴールデンゴールを決め、イタリアを敗退に追い込んだ。これに激怒したガウッチ会長は「イタリアサッカーを破滅させた男に給料を払う気はない」と発言し、安貞桓を解雇すると宣言。この発言は世界中から大きな批判を浴び、後に会長は発言を撤回したが、安貞桓がペルージャに戻ることはなかった。この一件は、ガウッチ会長の激情家としての一面を象徴するエピソードとして、今も語り継がれている。
•話題性重視の選手獲得:ガウッチの関心は、純粋な戦力補強だけにとどまらなかった。2003年、彼はリビアの独裁者カダフィ大佐の三男、アル・サーディ・カダフィを入団させる。サッカー選手としての実力は未知数だったが、その話題性は絶大で、世界中のメディアがペルージャに注目した。
•女性選手の獲得:さらにガウッチは、女子サッカー選手を男子チームであるペルージャに入団させようと画策。ドイツ女子代表のビルギット・プリンツや、スウェーデン女子代表のハンナ・ユングベリの獲得に動き、イタリアサッカー連盟(FIGC)に登録を申請したが、これは認められなかった。しかし、この一件もまた、ガウッチとペルージャの名を世界に知らしめる結果となった。
1-3. 馬主としての成功
ガウッチの成功は、サッカー界だけにとどまらない。彼は競走馬のオーナーとしても、輝かしい実績を残している。1988年には、所有馬であるトニービンが、世界最高峰のレースの一つである凱旋門賞を制覇。トニービンはその後、日本で種牡馬として大成功を収め、1994年には日本のリーディングサイアーに輝いた。ベガ、ウイニングチケット、エアグルーヴ、ジャングルポケットなど、日本の競馬史に残る数々の名馬を輩出し、その血は今も日本の競馬界に大きな影響を与え続けている。
1-4. 複数クラブ経営と破天荒な晩年
ガウッチのクラブ経営はペルージャだけにとどまらず、ヴィテルベーゼ、カターニア、サンベネデッテーゼといったクラブの会長も歴任。行く先々で物議を醸し、話題を提供し続けた。しかし、そのアグレッシブすぎる経営スタイルは、多くのクラブを財政的な危機に陥らせる結果も招いた。2005年のペルージャの破産は、彼の経営手法の限界を象徴する出来事でもあった。晩年は脱税の罪で追われ、ドミニカ共和国に逃亡。2020年、その波乱に満ちた生涯を閉じた。享年81歳。彼の存在なくして、中田英寿のイタリアでの成功はなかったかもしれない。良くも悪くも、彼はイタリアサッカーの一時代を築いた、忘れ得ぬ怪物会長だった。
第2章:世紀の移籍 – なぜ中田はペルージャを選んだのか
1998年夏、W杯フランス大会を終えた中田英寿のもとには、欧州各国のクラブから数多くのオファーが殺到していた。アーセナル、ユベントス、インテルといったビッグクラブの名前も挙がる中、21歳の若武者が選んだのは、セリエAに昇格したばかりの地方クラブ、ペルージャだった。この決断は、多くのサッカーファンを驚かせたが、そこには中田自身の明確なビジョンと、ペルージャ側の熱烈なアプローチがあった。
2-1. ペルージャはなぜ中田を獲得したのか?
ペルージャが中田獲得に動いた最大の理由は、会長ルチアーノ・ガウッチの先見性にある。彼は、1998年のW杯で金髪をなびかせ、屈強な海外選手を相手に一歩も引かない中田のプレーに、純粋な戦力としての価値と、未開拓のアジア市場を開拓するマーケティングツールとしての価値の両方を見出していた。
「最も特殊な交渉だった。日本に4か月もいたんだ」
後にガウッチ会長の息子、アレッサンドロ・ガウッチは、イタリアメディア『TMW』のインタビューで当時をこう振り返っている。当時、日本人選手が世界最高峰のセリエAに移籍することは前例がなく、移籍金400万ドル(約5億6000万円)という金額も破格だった。しかし、ガウッチは中田の才能と、彼がもたらすであろう経済効果を確信していた。日本のテレビ局が放映権を購入し、日本人ファンがスタジアムに訪れる。その経済効果は、移籍金を補って余りあるものだと計算していたのだ。
2-2. 中田はなぜペルージャを選んだのか?
一方、中田自身にとって、ペルージャ移籍は極めて戦略的な選択だった。彼は、ビッグクラブの分厚い選手層の中で出場機会を失うリスクを避け、確実に試合に出場できる環境を求めていた。
「試合に出られる可能性が高いから」
2019年、中田はネットテレビ番組でペルージャを選んだ理由をこう簡潔に語っている。彼の目標は、セリエAという世界最高峰の舞台でプレーし、自身の価値を証明すること。そのためには、まず試合に出場し、結果を出すことが不可欠だった。セリエBから昇格したばかりで、絶対的なスター選手がいないペルージャは、彼にとって理想的な環境だったのである。
この決断は、常に冷静に自身のキャリアを俯瞰し、目標達成への最短ルートを逆算する中田らしい選択だったと言える。彼はペルージャを、より大きなクラブへステップアップするための重要な足がかりと捉えていたのだ。
第3章:ペルージャの王様 – NAKATAがセリエAを席巻
3-1. 衝撃のデビュー戦:vsユベントス
そして迎えた1998年9月13日、開幕戦のユベントス戦。中田は、世界中のサッカーファンの度肝を抜くパフォーマンスを披露する。後半7分、右サイドからのパスに走り込んだ中田は、角度のないところから右足を強振。強烈なシュートはGKアンジェロ・ペルッツィが守るニアサイドをこじ開け、ゴールネットを揺らした。さらにその7分後の後半14分、今度はコーナーキックの混戦からこぼれたボールを、身体を倒しながらボレーで叩き込む。この2ゴールで、中田はセリエAにその名を轟かせ、ペルージャの新たな王様として君臨することになる。
この活躍は、イタリアの主要スポーツ紙『ガゼッタ・デロ・スポルト』に「日本の将軍がイタリアを征服した」と絶賛された。
3-2. 相棒ミラン・ラパイッチとの共演
中田の活躍を語る上で、もう一人の重要な存在がいる。クロアチア代表のミラン・ラパイッチだ。卓越したテクニックと左足から繰り出される正確なパスで、中田と共にペルージャの攻撃陣を牽引した。中田がトップ下でゲームを組み立て、ラパイッチが左サイドからチャンスを演出する。この二人のコンビネーションは、セリエAの屈強なディフェンダーたちを大いに苦しめた。
ラパイッチは、ペルージャで活躍した後、トルコのフェネルバフチェや母国のハイドゥク・スプリトなどでプレー。2008年に現役を引退し、現在はクロアチアで代理人として活動していると言われている。
3-3. 闘将マテラッツィとの共闘
当時のペルージャには、もう一人、後に世界的なスターとなる選手が在籍していた。2006年W杯ドイツ大会決勝で、ジネディーヌ・ジダンの頭突き事件で有名になった、元イタリア代表のマルコ・マテラッツィである。
闘志あふれるプレーでチームを鼓舞するマテラッツィは、ディフェンスラインのリーダーとしてペルージャの守備を支えた。1999-2000シーズンの半年間を共闘した中田、ラパイッチ、マテラッツィ。個性豊かなタレントを擁したペルージャは、旋風を巻き起こした1998-99シーズンを14位でフィニッシュに続き、1999-2000シーズンも10位でセリエA残留を果たした。
3-4. YouTubeで振り返るペルージャ時代
中田は、自身のYouTubeチャンネル「Hidetoshi Nakata」で、ペルージャ時代を振り返っている。その中で彼は、当時の心境やチームメイトとの関係について、次のように語っている。
「ペルージャは最初の海外のチームだったから特別。自分がどれだけできるか試したかった。言葉も文化も違う中で、サッカーという共通言語でコミュニケーションを取るしかなかった。ラパイッチとはよく一緒にいた。彼は本当にテクニックがあった」
この動画からは、21歳の若さで単身イタリアに渡り、プレッシャーの中で自身の価値を証明しようと奮闘していた中田の姿がうかがえる。彼のペルージャでの成功は、その後の日本人選手の欧州挑戦の道を切り開く、大きな一歩となったのだ。
第4章:栄光と転落、そして復活へ – ペルージャの数奇な運命
中田英寿というスター選手を獲得し、セリエAの舞台で脚光を浴びたペルージャ。しかし、その栄光は長くは続かなかった。中田が1999-2000シーズンの途中に名門ASローマへ移籍すると、クラブは徐々に輝きを失っていく。
4-1. 中田移籍後のペルージャ
中田の移籍後も、ガウッチ会長は安貞桓やカダフィ大佐の息子を獲得するなど、話題性のある補強を続けた。また、2002-03シーズンと2003-04シーズンには、日本の大手自動車メーカー「トヨタ」が胸スポンサーとなり、日本との繋がりを維持しようとした。しかし、チームの成績は下降線をたどり、2003-04シーズンにセリエBへ降格。さらに翌2004-05シーズンには、深刻な財政難に陥り、クラブは破産を宣告される。
4-2. 破産からの復活
破産により、ペルージャはプロリーグからの追放を余儀なくされ、アマチュアリーグであるセリエC2(当時5部相当)からの再出発を強いられた。クラブ名も「ペルージャ・カルチョ」と改め、新たな道を歩み始める。
そこからの道のりは、決して平坦ではなかった。何度もオーナーが変わり、クラブ名も変更を繰り返しながら、ペルージャは少しずつカテゴリーを上げていく。そして2014-15シーズン、ついにセリエBへの復帰を果たす。破産から9年、ペルージャは再びプロの舞台へと帰ってきたのだ。
4-3. 現在のペルージャと日本マーケット再開拓
2025年現在、ACペルージャ・カルチョはセリエC(3部)に所属している。セリエAの舞台からは遠ざかっているものの、クラブはかつての栄光を取り戻すべく、日々奮闘を続けている。
そして2024年、ペルージャは新たな動きを見せる。日本語の公式X(旧Twitter)アカウント(@ACPerugiaJP)を開設し、日本のファンに向けた情報発信を開始したのだ。さらに、2002年から2004年にかけて胸スポンサーだったトヨタとの関係に言及し、新たな日本企業のスポンサーを募集するなど、かつて中田英寿が開拓した日本マーケットとの関係を再構築しようとしている。
この動きは、単なるノスタルジーではない。クラブが再びセリエAの舞台に返り咲くためには、中田時代のような国際的な注目と、それを支える資金力が必要不可欠である。ペルージャは、日本のファンや企業との絆を再び深めることで、クラブの未来を切り開こうとしているのだ。
第5章:聖地への巡礼 – ペルージャへの旅と試合観戦
中田英寿がセリエAの歴史にその名を刻んだ街、ペルージャ。サッカーファンなら一度は訪れてみたい聖地だろう。ここでは、日本からペルージャへのアクセス方法と、現在のペルージャの試合を観戦する方法について紹介する。
5-1. 日本からペルージャへ
日本からペルージャへの直行便はない。そのため、ヨーロッパの主要都市を経由して向かうのが一般的だ。
•飛行機を利用する場合:最も一般的なのは、ローマのフィウミチーノ空港(レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港)か、フィレンツェのペレトラ空港(アメリゴ・ヴェスプッチ空港)を利用する方法だ。そこから電車を乗り継いでペルージャへ向かう。ペルージャには、ウンブリア国際空港(ペルージャ・サン・フランチェスコ・ダッシジ空港)という小さな空港もあるが、日本からの便は就航していない。
•電車を利用する場合:ローマのテルミニ駅からペルージャ駅までは、イタリア国鉄(トレニタリア)で約2時間半。フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅からは約2時間。ペルージャ駅から市内中心部へは、バスやミニメトロを利用してアクセスできる。
5-2. 現在のペルージャの試合を観るには?
2025年現在、ペルージャはセリエCに所属している。日本の主要なスポーツ配信サービス(DAZN、U-NEXTなど)では、セリエCの試合は配信されていないため、日本国内で視聴するのは簡単ではない。
しかし、いくつかの方法で視聴することは可能だ。
•Sky sportで配信がされている模様だ。詳細は下記URLをチェックして欲しい。https://www.livesoccertv.com/teams/italy/perugia/
•FIFA+:FIFAが運営する公式ストリーミングサービス。2023年からセリエCの一部の試合を無料で配信している。ただし、配信される試合は限られている。
•ACペルージャ公式Xアカウント:ペルージャの日本語公式Xアカウント(@ACPerugiaJP)では、試合の速報やハイライト動画が投稿されることがある。また、今後の配信情報についても告知される可能性があるため、フォローしておくことをお勧めする。
スポーツ配信ナビとしては、ペルージャの今後の躍進に大注目している。セリエB、そしてセリエAへと返り咲くその日まで、彼らの戦いを追い続けたい。
結論:ペルージャが刻んだ記憶と未来への希望
1998年、中田英寿の移籍によって、ACペルージャというイタリアの地方クラブは、日本のサッカーファンにとって忘れられない特別な存在となった。それは、単に日本人選手が活躍したクラブというだけではない。型破りな会長のリーダーシップのもと、世界市場に目を向け、常識にとらわれない挑戦を続けた、異端のクラブの物語でもある。
中田が去り、クラブが破産の憂き目に遭ってから、長い年月が流れた。しかし、ペルージャは不死鳥のようによみがえり、今もセリエA復帰という夢を追い続けている。そして、再び日本のマーケットに目を向け始めた彼らの姿は、かつて中田と共にセリエAを席巻した時代の情熱を思い起こさせる。
中田英寿とペルージャが刻んだ記憶は、色あせることなく、今も多くのサッカーファンの心に生き続けている。そして、その記憶は、クラブの未来を照らす希望の光となるだろう。スポーツ配信ナビは、ACペルージャが再び世界の注目を集める日が来ることを、心から期待している。
参考文献
•[1] Wikipedia, 「ペルージャ・カルチョ」, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A7
•[2] Goal.com, 「元ペルージャの名物会長ガウッチ氏が死去、享年81歳…1998年夏に中田英寿を獲得」, https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/%E5%85%83%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%81%AE%E5%90%8D%E7%89%A9%E4%BC%9A%E9%95%B7%E3%82%AC%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%81%E6%B0%8F%E3%81%8C%E6%AD%BB%E5%8E%BB%E4%BA%AB%E5%B9%B481%E6%AD%B31998%E5%B9%B4%E5%A4%8F%E3%81%AB%E4%B8%AD%E7%94%B0%E8%8B%B1%E5%AF%BF%E3%82%92%E7%8D%B2%E5%BE%97/cy108y7x3b6f14y3qq732qgxi
•[3] 時事通信, 「日本サッカー 開拓者たち」, https://www.jiji.com/jc/v4?id=2020kaitakusha0001
•[4] Soccer Digest Web, 「『最も特殊な交渉だった。日本に4か月もいたんだ』元ペルージャ幹部が中田英寿獲得の舞台裏を明かす」, https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=124853
•[5] Yahoo News, 「『胸に、日本を。』 イタリアセリエC・ペルージャ、ユニホーム胸スポンサーの日本企業を募集」, https://news.yahoo.co.jp/articles/ef24ca95518309fe5c4d4428f125f52fd44849e2
•[6] Lega Pro, 「SERIE C ITALIAN FOOTBALL AVAILABLE ACROSS THE WORLD ON 196 SPORTS PLATFORM」, https://www.lega-pro.com/serie-c-italian-football-available-across-the-world-on-196-sports-platform-serie-c-italian-football-fans-will-be-able-to-follow-their-favorite-teams/

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